身近に感じるようになった宗教や信仰のこと

[記事公開日]

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トルコは国民の大半がイスラム教徒だけれど、彼らの宗教観とか、政治と宗教の問題とか、いまだによく分かりません。
でも日本で暮らしていた時に比べたら、宗教とか信仰というのを身近に感じるようになったのはたしか。
いまラマダンの真っ只中だし、数ヶ月後にはイード(犠牲祭)を迎えるけれど、こういう宗教行事の時には特に宗教や信仰のことを否応なしに意識させられます。

普段の生活の中でも、人々を通してイスラムの教えによる行動原理とか価値観といったものに触れることもあります。

私の中には、何かの対象を心の拠り所にするっていう生き方、いわゆる信仰ってのがない。
それを普通のこととして40年以上も生きてきた。

仏教徒でもないのに、多くの人がお葬式を仏式でやる。
それを多くの人が何の違和感もなく受け入れている。
戒名とか塔婆とか用意してもらったり、回忌法要でお経あげてもらったりして、寄付という形でお支払いもするけれど、普段の生活では特に仏教の教えを意識したりってこともない。
故人の冥福を祈るという意味合いはあれど、日本の仏式のお葬式ってどちらかといえばセレモニー的な感覚?俗に言う「葬式仏教」ってやつ。
こういうのも、他国の人から見たら不思議に思えるものかもね。

私自身は無宗教(無信仰)だし家族もそうだけれど、なぜかカトリック系の幼稚園に通わされてました。
母親によれば「制服が可愛かったから」ってことらしいけど(^^;
園内にチャペルがあったし、お昼のお祈りの時には「天にまします我らの父よ・・・」とか言ってたし、クリスマスのお遊戯会にはいわゆる「聖劇」をやったりして、実はキリスト教徒歴もあったような、ないような。
大人になってからは、仏教も神道も信仰はしてないけれどお寺にも行くし神社にも行くし、みたいな。
こういう宗教的意識とか行動って、どうなんだろうなって思ったりしますね、最近。

そういえば宗教絡みで最近トルコで話題になってたこと。
トルコ最大野党の党首がある場所で、お祈りの時に敷く小さいカーペットの上に土足で乗ったと。
しかもその小さいカーペットに乗ってるところで記念撮影しちゃってて。
国民の大半がイスラム教徒の国でこれは大問題だぞ!って騒ぎになっちゃって。
お祈りの時に額をつけるものを土足で踏みつけるとは何ぞや!って。
ま、それは分かるんだけど個人的に解せないのは、偉い人が訪問するの承知でなぜその場にお祈りのカーペットを敷いたままにしてたの?とか、記念撮影してる場に他にも大勢いただろうに気づいて指摘する人は一人もいなかったの?とか。
なんか疑問がいっぱいの一件でしたけどね。
街中にこれだけの多くのモスクがあって、日に5回のお祈りを欠かさない人たちが多くいる国でも、リベラル派の人たちからしたらお祈りのカーペットの存在ってその程度の感覚なのかー、とか思ったりね。
テレビでコメンテーターの話とか聞いててもトルコ語ぜんぶ理解できないからアレなんですけど、この辺の宗教にまつわる人々の感覚も、実は全然よく分からないです。

気づけばまとまりのない文をダラダラ長く書いてしまった。


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