アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を見学(後編)

[記事公開日]2018年7月25日

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アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を見学(前編)に続いて、後編です。

ビルケナウ(第二強制収容所)から移動して、アウシュヴィッツ(第一強制収容所)へ。
男性ガイドさんとはここで一時お別れし、ポーランド人公式ガイド+日本人通訳+私たち(2人)+別の日本人客(2人)の計6人で、第一収容所のツアーが開始となりました。


“アウシュヴィッツ”はドイツ語。ポーランド語だとこの場所は、”オフィシエンチム”。
元々オフィシエンチムには軍舎の廃墟があり、市街地から離れていること、また鉄道があり輸送に適していたことから、収容所としてこの地が選ばれたようです。


アウシュヴィッツ(第一強制収容所)のほうは、持ち込み荷物のチェックがあり、また荷物の大きさにも制限がありました。
A4サイズ以上の荷物は持ち込めないとのことで、30x20x10cmサイズ以上の荷物を持っている場合は、預ける必要があるようです。
私たちは規定内のサイズだったので、そのまま持って入りました。





入り口。ガイドツアーを待つ人たちなのか?かなり混み合ってました。
奥のほうに、売店やトイレ(有料)がありました。





アウシュヴィッツの売店で買った、パンフレットと絵葉書。





このパンフレット、かなり詳しく説明が書いてあってオススメ。





絵葉書も、ここアウシュヴィッツ博物館でしか売ってないものなので、記念に2枚購入。





緑があって、とても長閑な雰囲気で、以前この地で大量殺人が行なわれたことなど、とても想像できないようなところでした。
ビルケナウ(第二強制収容所)はほぼ外を歩く感じだったけど、アウシュヴィッツ(第一強制収容所)はレンガ造りの建物の内部に展示物があるので、建物の中にいる時間のほうが多いです。
両方の施設の見学で、3時間近くは歩くことになるので、歩きやすいスニーカーなどで行くのがいいと思います。





右の黄色いワンピースの女性が、ポーランド人の公式ガイド。
左の背の高い女性が、日本語通訳。
通常、公式ガイドの説明を通訳が訳す、というのが一般的なガイドツアーのようですが、私たちのツアーではなぜか、ポーランド人の公式ガイドさんは特に何をするわけでもなく、ただ同行していただけ。日本語通訳さんが全て直接説明をしてくれました。
日本語はネイティブレベルで、説明も分かりやすくて上手、もうこの人が公式ガイドでいいじゃん?って感じでした。





アウシュヴィッツの正門、有名な「ARBEIT MACHT FREI」の看板。
ドイツ語だけど、訳すと「働けば自由になる」という意味。





最初の展示物。
「Those who do not remember the past are condemned to repeat it」
訳すと、「過去を記憶できない者は、その過去を繰り返す運命にある」という意味。
これは、George Santayanaという哲学者の言葉。





当初アウシュビッツ収容所は、ポーランド人の政治犯を収容する目的で建てられた施設でしたが、その後ユダヤ人やソ連軍の捕虜などが収容されることになります。
1942年からは、ユダヤ人の虐殺施設となり、欧州各地から大勢のユダヤ人がここに連行されました。


以降、ショッキングな写真も何枚か載せます。
現実に起こった事、過去に起きた出来事に目を背けないよう博物館で展示されているものではありますが、見たくないと思われる方は、どうぞご遠慮願います。






ビルケナウ収容所に貨車が到着し、大勢のユダヤ人が荷下ろし場で降ろされている写真。





この地へ輸送されたユダヤ人の大多数は、”移住”と信じてやって来たため、大切な財産を全てカバンに入れて持ってきていたそうです。
↑の写真は、彼らが収容された時に持っていた食器など。





ユダヤ人身体障害者から没収された大量の義足。
ナチスは他にも、靴や眼鏡、被服など、持ち物の全てを彼らから略奪。





子供の服や靴。





没収した大量の靴。
同じくガラス内の展示で、収容されたユダヤ人から刈り取ったの髪の毛が、天井高くまで大量に積まれていました。
そしてナチスは、その髪の毛から生地を生産していたそうです。
他にも、死体から抜かれた金歯を延べ棒にしたり、人の脂から石鹸を作ったり、人骨を粉にして肥料に使ったりしていたそうです。

絶句。。。。。





ガス室、焼却炉の模型がありました。





ガス室での殺人に使われた、チクロンB。





被収容者の一日の食事は、こんな感じだったようです。
これ、一食じゃなくて、一日ね。
草を煎じた飲み物、スープ、黒パン。およそ1,300カロリーと記録されていたらしいけど。
この食事内容から、そんなカロリーあるはずがないですね。





被収容者が解放された時の写真。
70キロ以上の体重があった女性が、解放時は25キロ程度の体重になっていたそう。





労働可能とみなされた被収容者は、囚人番号を与えられ、登録されました。
展示されている写真には、それぞれ収容された日にち、亡くなった日にちが記載されていましたが、その多くが収容された日から、約3ヶ月程度で亡くなっていました。





人体実験に利用された女の子たち。
ナチスは、ユダヤ人をはじめ、ジプシーや同性愛者、政治犯等、下等民族とみなした者の根絶を本気で考えていました。
避妊手術などの医療実験を、被収容者を使って行なっていたそうです。





特に、双生児はすぐには殺害されず、医学実験の材料にされたようで、解放された子供の中には双子が多かったそう。
写真の一番前の双子のうち一人は、現在もアメリカに住んでいて、時折アウシュヴィッツにも来て、当時のことを語ったりするそうです。





第11ブロック=”死のブロック”
11ブロックの地下には、裁判が行なわれた場所や牢獄があり、個人的にはアウシュビッツ博物館の中で一番リアルを感じ、衝撃を受けた場所でした。
11ブロックの地下は写真撮影が禁止のため写真はないですが、極狭の箱のようなスペースに立たされたまま、座ることができず衰弱死させられる「立ち牢」など、想像を絶する施設が、当時のままに残っていました。





第10と11ブロックの間にある広場、ここでは処刑が行なわれていました。





この場所で、鞭打ちの刑、柱の刑(背中で両手を括って釣り上げる)、銃殺などが行なわれていました。
両側の部屋から見えないように、窓には黒い木製の覆いがされています。





死の壁。
主に、ポーランド人が銃殺されたそうです。





見せしめに使われた、公開処刑場。




ツアーの最後で行ったこちら、ガス室です。
建物のサイズに対して、やけに大きな煙突があるのが象徴的。





当時のガス室には、天井にシャワーが取り付けてあったそうです。
でも、それはダミーなので、水が出ることはありませんでした。
シャワーをあびると思わせ、ガス室の扉を閉め、天井の穴からチクロンBを投入し、ガスで殺しました。





天井のチクロンBを投入する穴。

ちゃんとガイドさんに確認しなかったけど、このガス室はおそらくオリジナルではなく復元と思われます。
が、内部のカビくさい臭い、壁のまだら模様、ここで大勢がもがき苦しみ殺された想像させるに十分な場所でした。





ガス室の奥にあった焼却設備。





ガス室の近くには、アウシュヴィッツ強制収容所の所長、ルドルフ・ヘスが処刑された場所がありました。
奥に絞首台が見えます。





脱走防止の有刺鉄線を見ながら、アウシュヴィッツを後にしました。

日本語通訳さんが最後に、「ここアウシュビッツには、イスラエルの人も多く来る。みんなイスラエルの旗を持っている。今日は土曜日でユダヤ教の安息日なので見かけないけれど。」と言っていました。

2年前に行ったバルト三国、特にリトアニアで、歴史背景がよく分からずなんとなくボンヤリしていた部分が、今回のポーランド旅行でやっと繋がって理解できたというか、そんな面もあります。

最近感じること。
いくつになっても勉強、生涯学習というのは、なにも机に向かって勉強することや、資格取得の為に頑張ることだけではない。
かれこれ40ヶ国近くを旅行して、都度何かしら得るもの、感じるものがあって、そこから新たな好奇心がどんどん生まれている。
今まで知らなかったこと、理解できなかったことが、分かるようになっている。
これも立派な学習なのではないかと。
ということで、私にとっては旅行=勉強です(笑)

最後ちょっと余談でしたが、以上、アウシュヴィッツ博物館見学の様子でした。


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